2008-9年末年始『第六夜・闇路』(『協奏曲』より)

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 日が沈むと街の温度が一気に下がる。
 大晦日。それなのにまだ家の片づけが終わり切らないのは僕自身が年末にも関らずまだ剣道部を完全に引退しきれていない為だった。受験に専念すべき時期であっても、指導を頼まれてしまう状況は無視出来ない…いや、家から離れたいのだろうか。そう考えてはならないのに。
「――あの人の部屋なんて掃除しなくていいのよ。帰ってこないんだもの」
 不機嫌ですらない淡々とした口調で凪が呟く。まだ中学生でしかない妹の可哀想な達観をどうにか慰めたいが、僕にはそれはどうにも出来ない。事実、父親に捨てられた様な家なのだから。そして、妹が既に父を疎ましい存在としか考えられないのは自分の責任でもあった。
「その分のんびりしたいわ」
 商店街からの帰り道、大きな買物袋を車道側に持つ僕の空いている方の肘に、凪の手がそっと重なる。
 仲のよい兄妹が甘える仕草にしては控えめで、そしてとても繊細な仕草に僕は凪を見た。肩先で綺麗に揃えた漆黒の素直な髪に白いカシミアのマフラー。何もかもを見透かしそうな大きな瞳が印象的な日本人形の様な美貌は大人びていて、だが潔癖で傷つき易い少女のそれだった。
 ただ一人の父親に捨てられて平然としていられる程、情の薄い少女ではなく、それが愛情による憎しみだと僕は理解している。――その鋭過ぎる純粋さは、普通の男である父には辛いのだろう。
 月齢3.6の薄い月が西の空に沈んでいく。眩しい金星も空で傾き、東の空にはオリオン座やシリウスが昇っている筈だが、それでも夜空は暗い。ここ数日雨が降らず乾燥している夜気は風もなくただ静かに地上に漂い、足元からの冷気と混ざり合う。街の中心部から住宅街へと進むと、どの家も既に雨戸を閉ざし、玉飾りや門松が門扉を賑わせているが家族の団欒を感じさせる賑やかさは家の中だけにとどまり、街路に溢れる事はない。
 そっと、妹が僕の腕に頭を寄せた。
 寒さから逃れる様に。

 家に残されたただ二人の家族なのに、僕と妹は時間の共有の方法が判らない。
 昔は判っていた。妹の勉強を教えて、家族宛の案内を何度も繰り返し読んで辞書を手にインターネットで検索をして出来るだけ保護者として完璧な対応をしようとし、まだ家事が出来ない凪の分も料理をし、洗濯をし、寝かしつけるまでいつも一緒だった。しかし中学に通う頃には凪も家事をこなす様になってきて、僕の仕事は減っていく。
 凪が代わりに何の時間を得たいのか、僕には判らない…判ってはいけない。
 それでも凪の甘えを無条件で許したくなる時は、たまにある。

 湯が揺れる。
「あったかい……」
 僕の上で凪が溶けそうなほど柔らかな無防備な声で呟く。
 長身の僕が足を延ばしてもゆとりのある大きな湯船は、妹が一緒に入っても十分な余裕があった。
 仰向けに身体を伸ばしている僕の上で、凪はまたがり、俯せに身体を重ねている。僕のよく知っているあの少女とは似ても似つかない、子供の身体。胸板に乗る乳房は乳首が硬くなっていても乳房自体が小さく、恐らく僕の手の中に簡単に納まってしまい余裕が残るくらいだろう。まだ幼い、まだ女と扱うには発育の足りない身体。
 凪の腕は僕の首に絡みついている。浴槽の中で滑らない様になのか、深く、頬を僕の肩に乗せ、唇を首筋に当てて。入浴剤で見えない湯船の中で身体を密着させて。――僕のものを、下腹部から尻肉の間まで密着させて。
 凪が微睡む様な緩い吐息をつく。顔が見えなくて、何故か安心してしまう。
 浴槽の照明は点けていない。それなりの広さの中庭や壁があるから隣家や街路からは見えないと言っても、妹と二人で入浴している気まずさに、明かりは脱衣所からのものしかない。擦りガラス越しの間接照明は薄暗く、蒸気に曇った窓の外は更に暗い。しんと静まった蒸れた空気の中で、凪の呼吸と鼓動と湯の揺らぎだけが支配する。
 時折、凪が動く。
 唇が動き、僕の喉に歯があたる。まるで吸血鬼の様な仕草だった。
「頚動脈って、この辺り?」
「噛み千切らない様に」
 僕の言葉に凪がくすっと笑う。
 笑って誤魔化さないと恐ろしい方向へと流されてしまいそうな感覚が支配する…男と女の一線を越えなければ孤独で死にそうな妹の狂気と、守るべき妹を追い詰めてしまう僕の狂気。このまま時間が止まればいいと思うのは、このまま死ねば楽だという意識に似ていた。
 もしも一緒に死ぬのならば、僕が妹を殺すのだろう。
 妹には罪はない。妹が世間に悪と見なされ断罪される事は絶対にあってはならない。その後の僕が世界の全てに否定されようが構わないし、第一に妹を殺した後の世界に長く居てはならない。
 だが、まだ僕はこの世界に居たい。
 妹が孤独を感じるのは間違いで、世界にはぬくもりが満ちている事を伝えなければならない。妹は幸せにならなければならない。僕が信頼する幾人に出会えた様に、眩しいあの真っ直ぐな少女の様に、世界には僕達だけでないと、妹が気づく様に。
 時折刹那に捕われる僕自身がそれを願うのは、思い上がりなのだろう。
 ゆっくりと手を動かし、凪の頭を撫でる。湯の中に浸かっていた手は濡れていて、腕を湯が伝っていく。
 それでも願わずにいられない。
 その為なら、僕はすべてを失っても構わない。
 妹が幸せになれる事を。――それだけを、願っている。

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