■自循論::自循の定義
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[
S
t
←
S
t+1
]t
始めと終わりがあり、有限手順で自己を参照しつつ変化するもの。
本公式は、全世界の普遍、究極の真理、最終基本クラスを 表現した式であり、全ての具体的な事象(神、愛、生命、意味、英知、 存在理由、意志、物理法則、数学原理など)の根源的な性質、 もしくは本質を説明するものである。
記号「S」は、説明したいもの、つまり「対象」となるものの総体を表わす。 Self(自己)、System(系)、Space(空間)などの頭文字を意味する。 Sに含まれる要素は有限である。 (自循では対象として無限なるものは扱わない。)
記号「←」は、観測する、認識する、参照する、作用される、 といった関係を表現する、
1回のプロセス
である。 「A←B」と書いた時は、「BはAを参照した結果である」ことを意味する。 Aは不動・固定のものであり、 BはAを参照しつつあることでBという状態になっている。 (もしAを観測していなければ、BはBではありえなかった。) この意味で、Bは、Aに作用されている。 なお、関係「←」は、A、Bを合わせた系の "
内在的性質
"であり、 固定的に与えられた演算子ではい。 (Aが決まれば、「←」の性質も決まる。)
記号「t」は、対象Sを自然数によって序列化するための添付数字である。 Time(時間)の頭文字を取った。時間は実数のように 完全に滑らかに流れるのではなく、「1、2、3…」と 量子時間(1クロノン)単位で離散的に遷移していく。
記号「[...]x」は、xが有界(有限)であることを表現する。 つまり、[S
t
]tと書いた場合、tの境界は無限小でも無限大でもなく、 ある始まり t=t
1
があり、また、ある終わり t=t
N
がある、 ということを意味する。tは自然数(離散数)なので、 全てのS
t
は高々可算有限個しか無い。
以上より、[S
t
←S
t+1
]t を意訳してみると、 次のようになる。 『あらゆる有意味な対象には、 はじまりS
1
(α点)と、 終わりS
N
(ω点)があり、有限である。』 『ある時点の対象S
t+1
は、 その「1つ前」の対象S
t
によって決定される。 (対象S
t
と、それに内在する関係「←」から S
t+1
は決定される。)』
この公式に当てはまる対象Sを、「自循構造を持つ対象」 または単純に「
自循
」と呼ぶ。
▼
通常、科学や言語が指し示す「対象X」は、 自循の断片、不完全な自循であり、 従って「対象X以外の対象Yを対置概念として必要とする」。 すなわち、開放系である。 例えば以下のようになる。
[(X
t
,Y
t
)←X
t+1
]t
この時、Yを「
外部擾乱
」と呼ぶ。
Yが
無限乱雑空間
である場合は、
視点の無償性
の考え方から、 この外部擾乱は記述しない。
次に、自循の内部的な変化の1ステップのみ(S
1
→S
2
) に着目し、その詳細を見てみよう。 (ここは、量子飛躍、意識、光速度不変といった 現代科学の最大の難問に関わる部分である。 ここでは、1量子時間(1クロノン)内で、 どのような手続きが行われているのかをモデル化している。)
自循の初期状態S
1
が決まった後、 S
1
に内在し得る任意の仮想的な関係「←(i)」と、 これに対応する次の状態「S
2
(i)
」 を想定してみる。 ある「S
1
←(i) S
2
(i)
」 という関係は、可能な一つの状態遷移である。 (計算結果と言っても良い。) S
1
に内在し得る関係「←(i)」がN個あるとしたら、 次の状態は「
i
n
S
2
(i)
」 つまり全ての可能な結論(S
1
の要素は有限個なので、 この結論の総数もたかだか有限個)の重ね合わせとなる。 (どれか一つの可能性が選択されて他の可能性が捨てられる、 という事は無い。) この重ね合わせ 「S
1
i
n
( ←(i) S
2
(i)
)」を 単純に「S
1
←S
2
」と書く。 可能なS
2
(i)
は全て計算され、 結果としてそれら全てを重ね合わせたS
2
が作成されるまでの過程を 「1量子時間(クロノン)」と呼ぶ。
Sの要素(Sがこの宇宙であれば、Sの要素には人間が含まれる)には、 「1量子時間」内で何が起きているかを認識することは出来ない。
このような系列「S
1
←S
2
←S
3
←…」は、 循環するなどして、無限に続いてしまうかも知れない。 しかし、そのような系列は(あっても良いが)定義より自循では無い。 S
N
←S
N+1
とした時、 S
N
=S
N+1
となるような状態、 つまり「それ以上変化が無くなる時」が来るものが自循である。 (これは「
宇宙の熱的死
」 をイメージすると分かり易い。) 言い方を変えると、自循であるS
1
は「いつか終わる」 という性質を内在している(自死 apoptosis がプログラムされている)必要がある。 更に言い方を変えると、時間概念の基礎となるこの「1ステップ」は、 自死を実現し、自己完結するための手続きである。
▼
この原理式が述べている概念自体に難しいところは何一つない。 極めて平易で、直感的に分かり易いことを示しているだけである。 しかし、この原理式を様々な非自明な問題に適用することで、 より納得性の高い、それ以上の説明を要しない説明が可能となる。
愛には始まりと、そして終わりがある。この有界性を共有することが 一瞬一瞬の愛の変わりよう、育まれ方を規定する。 狭い意味での人-対-人の愛は、極めて不完全な自循構造であり、 外部擾乱要素と、不鮮明な有界性のために不純になったり 壊れ易くなったりする。 究極の愛の姿は、その愛を共有する人々全員が、 「その愛を自循として捉える」時に得られる。 各瞬間での愛の深さや快楽の度合いを高める意志も、 「愛は自循を指向するものである」という視点から 捉え直すべきである。 決して自己中心的・利己的な愛は自循には近づかない。
あらゆる「プロジェクト」は、 始まりと終わりが与件として規定される。 それがプロジェクトの過程の一瞬一瞬の進捗に影響を与える。 プロジェクトが外部擾乱要素で失敗するのを防ごうと思ったら、 むしろ外部擾乱要素が無くなるまでプロジェクトの範囲を広げようと 指向するべきである。 プロジェクトに関わる人々の人間性や社会動向、 現時点での世界レベルでの技術水準の把握なども、 「プロジェクトの内側」にあると認識するべきである。
このように「常に自循を目指す」ということは大変なことであり、 頭と身体を使う。完全に到達することは不可能であろう。 しかし、出来る限り「自己」と認識できる範囲を押し広げ (適当なところで「ここから先は自分とは無関係だ」と区切ったりせず) その全体に対して始まりと終わりを鋭く認識し、 今この瞬間の判断を行おうと努力し続けることなら出来る。 自循を指向し続けることが自循の哲学である。