齋藤助産院

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助産院のふつうの日々

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電話:0467-54-8841

住所:神奈川県茅ヶ崎市

    芹沢1004-10

  メールアドレス:

umu-umu@cg.netlaputa.ne.jp

 

 

齋藤助産院のふつうの日々

2011年12月31日(土)

 《 12月はいそがしい。 》

☆例年、年末には助産院の一泊忘年会が行なわれ、スタッフも子供達もとても楽しみにしている。今年は税金がタイヘンなことになり、「それどころではナイ」状況だったが、算数に弱い性格が幸いして「やっぱり行こうヨ」ということになり、12月2日、根府川の「星ヶ山コテージ」にGO! 大人・子ども・赤ちゃん、総勢45人という大世帯なので、全棟を借りきり、雨の中お風呂からお風呂へ渡り歩いて大はしゃぎ。ご飯の時の「一言スピーチ」で「今年一番良かったこと」をみんなに発表してもらいました。その中で「3人の受験生の成績がチョッピリ上がったこと」というスタッフがいて、のんきそうに見えてもやっぱり受験生はタイヘンなんだなーと思いました。ちょうど下の助産院が出来た年に生まれた子供達です。15年目...大きくなりました。

☆12月は初産の搬送が3件でした。初産の方全員です。ちょうど予定日ごろ内診して、子宮口も全然開いてなくて、赤ちゃんも降りてきている気配もない、という状況だったので「どうなることやら...」と心配していましたが、2人は破水から始まり、24時間以内に陣痛が来たものの、あと少しのプッシュの陣痛が来ず、2日経過して病院へ。翌日、点滴で促進して夕方出産になりました。もう1人は42週の前日に陣痛が来て、あとは他の2人と同じペースで、さらに1日長く5日がかりの出産でした。3人とも母子ともに元気です。タマタマだったのか、搬送が続いてしまい、病院にも随分お世話になってしまいましたが、本人たちはいいお産が出来たと思っていると思います。

☆今年も今日で終わりです。かなり厳しい1年でした。最後に古知屋さん(茅ヶ崎在住の画家)が「原発カルタ」を持ってきました。彼女はとても真面目に考える人なので原発と未来のことをすごく心配していて「考えようよ」という気持ちをカルタにしたと思います。いい作品です。助産院にあります。

(齋藤弓子)

2011年11月20日(日)

 《 今年のお産カーニバル。 》

☆心配していたお天気も、前日は雨・嵐だったのに、11月20日は快晴。おまけに暖ったかい、いい日です(女性センターは11月は暖房が入らない)。いつも以上の人出で、講演も舞台もとても充実していたと思います。助産院の方は留守番が2人いたので、呼ばれる心配もなく、中をウロウロしているうちに1日が終ったという感じです。写真家の宮崎雅子さんが午後来てくれるということだったけど、終りごろみそこんにゃくを売っていたら「宮崎です」と声をかけられて、「???ドコニミヤザキサン?」と大ヘマをしてしまいました。10年ぶりぐらいだったので、メガネをかけていて分かりませんでした。ソクセキサイン会(Mother新発売)は大盛況でした。急だったので知らずに帰った方もいらしたと思います。

☆お産カーニバル2日前、スタッフがあわただしく準備に励んでいる夕方、一本の電話「モーリですが......あさっては予定通りですか?」。毛利子来先生です。実行委員会の講演者の希望が多かったので事務局が打診(お手紙)したのですが、1ヶ月位たってもお返事がなかったので「ダメラシイ」とあきらめていたのです。もともとえらい先生ですし、コネもなくダメモトだったので「やっぱりネ」という感じでした。それがです。2日前に「行きますヨ」の返事。その場にいたスタッフ一同、舞い上がるやら凍りつくやら。私も呼ばれましたがどうしようもありません。正直に事情を話しました。残念でしたね。ツメが甘いとはこのことでしょうか。

☆半年かけての準備。実行委員のママ達の中には実行委員歴7〜8年という人もいます。だんだん子どもが大きくなると、いろんな行事で参加できにくくなりますが、それでも当日はスタッフとして参加してくれます。力仕事や子守りはお父さん。どこにいても当日近くになると電話をくれる助産婦の仲間たち。「今年は行けない」「気にかけてくれるだけでうれしいよ」のやりとりに見守られ、期待されていることを感じます。来年もやれるといいですね「おまつり」。

(齋藤弓子)

2011年11月6日(日)

 《 10月のこと。 》

☆今日はもう11月6日、日曜日です。入院の方は1名だけ。雨が静かに降って、寒くもなく、眠くなるような午後です。10月のお産は15人。そのうち初産は3人でした。助産院スタッフの白水さんも二男を出産。長男の時は3日かかりでしたが、今回は夕方に始まり0時くらいには生まれるスピードで本人が一番ビックリ。もう一人、前回の初産ではやっぱり3日かかりで、しかも「おみこしお産」だったRさんがまさかの”自宅出産”。幸い赤ちゃんはすぐ泣いて出血もなかったので待っててもらって、助産院スタッフがお家まで迎えに行って連れてきました。ある意味、親孝行な子ではあります。それから10月11日には3人、何と3人とも初産でした。そんな中で一番何のリスクもないと思われていたKさんが産後大出血!子宮収縮剤を使用しても止まらず、救急車で湘南鎌倉総合病院へ搬送、エコーで子宮の内反がわかり、陥納してもらい止血しました。輸血等もして何とか助かりましたが、本当に足のすくむ思いをしました。もともと陣痛が弱く、すぐそこにいるのに生まれず、自分で立ったり階段を上がったり降りたりして何とか産んだという感じだったので、子宮の収縮する力が弱かったのかなと思います。

☆ここ数年、子宮収縮の力が弱い人が多く、助産院でも胎盤出る時はみんなに収縮剤を使いたいくらいです。車での移動が多く、下腹部(丹田)に力が入る仕事も少ないせいかとも思います。映画「玄牝(ゲンピン)」の吉村医院のようにマキワリや清掃など日常的にやるのは意味がありそうです。(やってみようかな〜助産院ピカピカ....)

☆本当のこと言うと、足元がぐらついてて「こんな仕事してていいのかな」くらい、ちょっと沈んでいました。3月11日に湘南鎌倉総合病院で帝王切開で出産されたMさんが産後のうつ状態で秋田から帰って来ました。地震で手術が延び、本当に死ぬかと思うほどの後、手術を受け、緊張状態で疲れ果て、3日後に助産院に帰ってきた方です。お薬を飲むため、おっぱいを止めることになり、断乳のマッサージに来てくれました。お薬のせいで半分眠っているような状態のMさんがポツリポツリと話をします。「... 夜中に齋藤さんが足元に立っていた時〜むかしからのいやしのお仕事の人がここに立っている〜って思った....」と言いました。 ムカシ カラノ イヤシ ノ オシゴト ...... 助産婦という職業は明治からですが、それ以前も、もっともっと前から、イノチの現場につながる人々はどんな思いでオシゴトをしてきたでしょう。Mさんは自分のつらい時に、私の気持ちをやわらげてくれたのでしょうか(今大変なんだ〜と言ったので)。あらためて自分の仕事の大変さ、そして勇気をもらい、「丹田」に力が入る思いをしました。

11月20日(日)は「お産カーニバル」。もう13回になります。産み育てるパワーのお祭りです。今年は「オニババ化する女たち」の著者で”おむつなし育児”等にもかかわっている疫学者の三砂ちづるさんのお話もあります。湘南鎌倉総合病院の井上先生には毎回お話をしていただいています。先生は「産む力」や「産まれる力」を科学的に説いていられます。興味ある方、江ノ島に来て下さいね。

(齋藤弓子)

2011年10月2日(日)

 《 9月のこと。 》

☆8月、9月と聖路加看護大学の学生さんが2人来ていて、助産院にとても馴染んで賑やかだったので、帰ってからしばらくちょっと寂しいです。何より下の助産院に泊まっていたので、猫のニャンポンが一番寂しがっているようです。泊まっていたお部屋の前にチョコンといるので入れてあげたら、すごくくつろいで横になったりしています。でも「もういないや」というようにひとまわりして出ていきました。二人とも大きな病院にお勤めするようですが、学生時代に経験した助産院のスタッフやこどもたち、妊産婦さんたちとのふれあいも心の栄養にして働いていって欲しいです。11月からは県の衛生看護専門学校(助産師学科)の学生さんが3人見えます。近くの人たちなので、お泊まりは必要ないようです。よろしくお願いします。私が助産婦学生だった40数年前は、助産院は見学実習1日だけでした。今こうして助産師教育の中にかなりの時間をかけて実習に来ていただいて、学生にとっても助産院のスタッフにとっても嬉しいことです。

☆私は小説を読むのが大好きなのですが、先日、スタッフが貸してくれた「ふがいない僕は空を見た」(窪 美澄)は本当にびっくりする本でした。「さいとう助産院」が出てくるのです。登場人物がわたしのまわりにいるような人にそっくりで、お客さんであったりスタッフであったり、子供たちであったり......唯一、夫らしい人はいませんでしたが......。作者さんにお手紙書こうかと思ったくらいです。(もちろん知らない人です。)

5年前(2006.3.21)のミモザの花です。
 

☆先日の台風15号で下の助産院のミモザの木が倒れてしまい、隣の家のテラスの屋根の上に乗ってしまい、すぐに切ってもらわなければいけませんでした。春になると一番に2階の屋根も超えて黄色のかわいい花をいっぱい咲かせてくれました。スタッフは「上の助産院のお庭に持ってこれないかナー」と言っていましたが、大木になっていたので移動も大変ということで台風の翌日には片付けられてしまいました。下の助産院で春にお産した人達で寂しがる方もいるでしょう。今日は庭師さんに入ってもらい、しばらくモジャモジャだった下の助産院のお庭もすっきりしたようです。

(齋藤弓子)

2011年8月28日(日)

 《 8月のこと。 》

 

☆いろんなことがありました。ものすごく暑かったり、嵐が来たり、税務署が来たり、前の畑(先月に全部ゴミを片づけてもらい、借りて使っている)に業者同志のトラブルでまたゴミを置かれたり.....。助産院にも「世の嵐」が吹き荒れています。税金は不足があったら取っていただいていいのですが、やたらパズルのように細かい数字を並べて時間ばかりかけて、私のように数字にチョー弱い人間は何がなんだか分かりません。どこかに何か隠していると思っているのか通帳を出しても疑いは晴れません。夫が細かく対応していますが、さっさと結論を出して欲しいです。

☆ゴミのことは、去年はお金を取られただけで終りでしたが、今年は片づけてくれて、畑の賃貸料を払った甲斐があったというものでしたが、またまた間の人達で何かやっているようです。カンタンに嘘をついたりネコババしたりする人がいるのもオドロキですが、そういう人達も豊かな生活を送っているようには見えません。同じ穴のムジナと言うのでしょうか。雨の中、怒りまくっているゴミ業者さんと、呼んだおまわりさん、地主の代理人(大阪なのでTEL)、仲介の不動産屋さんと話していると「ア〜ッ」というお産のイイ声が外まで聞こえてきました。「アッ、お産なので失礼します」と家の中に飛び込んで、1時間くらい...赤ちゃんも無事生まれて、片づけも済んで、外に出ると誰もいなくなっていて、畑にゴミが残っていました。ドラム缶等は無いのですが、それも話ししだいでは全部持って来るとゴミ業者さんは言っていたそうです。お母さんや赤ちゃんたちにとって「自然がいっぱい」の齋藤助産院を作るのはマダマダ難問が待っているようです。

☆今月のお産はあと4人残っています。自宅が2人と初産の人と3人目の人です。来月の人で2人、もう産みたがっている人がいます。月末大潮です。自宅の人は辻堂と海老名で方向が反対なので、スタッフは大変そうです。助産院と自宅の2人と3方向、同時だとスタッフは6人必要です。その心づもりもしておかないといけません。気合いを入れて待っています。早く寝て、すっきり起きて、早め早めに仕事して.......。

(齋藤弓子)

2011年7月30日(土)

 《 6、7月のこと。 》

 

☆早い梅雨入りだったが、早めに終り、6月末にはびっくりするような高温の日が続き、梅雨明け。と言っても「6月末に梅干しを干すのはどんなものかな....」と迷っているうちに台風が来て、その後もカラッとは晴れない日々が続いている。なんとか梅漬けは干せたけど、「大丈夫かな」という乾き方である。今まで一度もないけど「これからカビがはえることもあるかな...」と心配です。

☆懸案となっていた助産院の前の空き地は、また1年借りることにして、またお金を払い、ようやく産廃のゴミを撤去してもらった。でも油で土地が汚れていて、その部分は畑には使えそうもない。これから何に使おうか思案中です。空き地の真ん中には家庭菜園でいろいろ植えているけど、クズやスギナだらけの土地なので、他の人達のようにうまく行きません。でもこれも経験でしょうか、おいしい野菜がいっぱい出来るように頑張りたいです。

☆6月は11人、7月は12人生まれました。8月は予定では混んでいましたが、7月に生まれたり、骨盤位(2人もいます)で病院に行ったりして、12人になりました。しかも後半に集中しているので前半は余裕です。でもスタッフが夏休みをとっているので、外来の人数もセーブ気味にして静かな8月になりそうです(甘かったりして....)。

(齋藤弓子)

2011年5月30日(月)

 《 5月の岩手。 》 

 

☆4月の末にバタバタと生まれたので、ゴールデンウイークはにぎやかでした。20日を過ぎたら、お産の入院は誰もいな〜い。今月は全部で9人しか生まれなかった。

☆津波に流された私の兄の御葬式が出来ることになり、20〜22日まで岩手へ。行く途中、仙台の叔母家族を訪問。釜石で葬式を済ませ、花巻に一泊して帰って来た。叔母の蒲生海岸も釜石も、まだまだガレキの片づけも終らず、今後の見通しもつかず、大変な日々が続いている。でも皆、健康で、とりあえずはアパートを借りて、日々の生活は送れるようにはなっている。もとの生活にもどれるのはいつだろう....。御葬式の後で和尚さんが「残された人が幸せにくらせるようになることが仏様を安心させる」と話されていた。目の前で父と離ればなれになってしまった姪にとっても、ひとつの区切りになってくれるといいと思う。泊まった花巻の旅館には自炊部があり、釜石のとなりの大槌から集団そかいして来ていました。帰る日の午前中、ちょっと時間があったので、近くの高村光太郎山荘に寄りました。高校時代に行ったことがあり、「汚い小屋で寂しく住んでいたんだ」という印象しかなかったのですが、いろいろ考えさせられました。戦災でアトリエを焼かれ、「戦争賛美」した責任を問われ、メタメタになって60才を過ぎての7年間、花巻の四季の風景や人々のくらしは、再び彼に自信をとりもどす糧になったのではないでしょうか。集団そかいの人々も、歩ける人はどんどん外に出て、内陸の自然や人々に触れて、やれることから少しずつ動いてみたらどうだろうか。沿岸とは違うくらしや感じ方に心和むことも多いだろう。私も目の前に広がる田畑、遠くに連なる北上山系、カエルのゲロゲロ鳴く声にホッとするような泣きたくなるような気分になれて、つかの間だけど山荘に寄れて良かったと思う。

☆お産が少ないわりに搬送が2件もあり、不本意な月でもあったが、終りに自宅出産が2件あった。そのうち1件は34週になってから引き受けた初産さんで、奥様が外国の方で文化の違いやコミュニケーションの面で心配だったが、24時間頑張って、元気なかわいい女の子が生まれた。入院の方がいなかったので私も立ち会えて、急にお受けした責任が果たせてホッとした。(ここまで30日。)31日午前0時30分に「陣痛4〜5分間隔」という電話で用意して待っていたら、1時20分に「動けない」とご主人から電話があり、あわてて場所を確認。今宿のオートロックの高層マンションの14階!到着した時は「もうすぐ生まれる」という状態で、すぐ用意して10分くらいで御出産。童謡(何て歌だったかな)を口ずさみながらの娩出で、本人が一番落ちついていたと思う。ここまで書いて外を見たらもう明るくなっています。久しぶりに雨音のない朝です。今月のお産は10人で終わりかな?5月の人が1人残っています。

☆末尾になりましたが今年の「お産カーニバル」は11月20日(日)に決定です。お産や子育てのモロモロ楽しむ会です。毎年、実行委員をつのって企画運営してもらっています。集まりは1月に1回位。赤ちゃんや子ども連れで大丈夫です。妊婦さんや産んだばかりの人もどんどん参加して下さい。

(齋藤弓子)

2011年4月23日(土)

 《 4月の日々。 》 

 

☆今年は遅かった桜も散り、畑の菜の花もお庭のチューリップも、そろそろ盛りを過ぎたようです。日に日に山には緑が色をつけ、どんぐりの木たちも若葉の用意をしています。食卓には芹沢産のフキやタケノコが春の味を楽しませてくれます。故郷のガレキの山も、流された人にも、フクシマの原発もまだまだ解決には程遠く、近く起きると警告されている東海沖地震のことやで心配はつきません。それでもいつもと変わらぬ季節の営みに、不思議な安心感を覚えてしまいます。

☆有床の助産院を開設以来、長年嘱託医としてお世話になっていた、辻堂の関口先生が突然「大動脈乖離(?)」という病名でお亡くなりになられました。御高齢でしたが、「ボクは死なないから大丈夫だよ」と言っておられて、腰痛だけが悩みの種でした。連係医療機関のことで困った時も、いろいろアドバイスいただき、お産のお手伝いにお伺いした時も細かい所も全部自分でされて、あまりお手伝いすることがないくらいでした。いつかはこういう時が来るとは内心覚悟していましたが、本当にビックリし、残念です。なるべく空白期間がないようにとの保健所からの指示で、さっそく茅ヶ崎徳洲会総合病院や湘南鎌倉総合病院に依頼して、ようやく茅ヶ崎徳洲会総合病院の産婦人科になっていただくことができ、先日副院長の今村先生からサインをいただきました。早産のことや搬送した結果等でご心配かけることもあり、私自身も検討課題をいくつかいただきました。がんばりたいと思います。

スタッフのクマガイさんがボランティアとして1週間、宮城に行って来ました。半島の小さな避難所をまわって救援物資を届けたり、分けたりする仕事だそうです。沢山のボランティアの人達が入って頑張っているそうです。大きな組織からハケンされたボランティアさんもいっぱいいるそうですが、個人で現地に滞在してゲリラ(?)のように仕事をみつけてボランティアをしている人もいて、今度はそういう人達に私たちの気持を託したいと思わされました。クマちゃんは5月にまた行きます。今度は医療関係のボランティアです。助産院唯一の独身・若手なので身軽に動きます。いろんな経験をして、きっとクマちゃんの人生は豊かになるでしょう。私たち留守番部隊もいろいろ調整して応援しています。

(齋藤弓子)

2011年3月20日(日)

 《 とんでもない日々。 》 

 

☆3月11日、金曜日、午後。突然の大災害。助産院は4人のお母さんと5人の赤ちゃんがいました。大きなお皿がいっぱい割れたけど、それ以外は大丈夫でした。皆でホールに集まってテレビを見ました。津波です。仙台の名取川を津波がどんどん上がってきます。仙台の叔母は七北田川の近くに住んでいます。近いけど大丈夫だろうか?釜石の兄は、姪は、その子供達は?山田にいる友人は?もう電話等通じません。何度も何度もかけましたが通じません。今日(3月20日)現在、連絡がついているかぎりで、釜石の兄は流されて行方不明。姪やその子供達は大丈夫。仙台の叔母は川が氾濫して不自由な足で避難中に軽トラに乗せてもらい間一髪のところで助かりました。古い友人達の消息は全然わかりません。

☆福島原子力発電所が津波の被害を受け、放射能がもれ、住民が20km30kmと避難させられ、大変なことになっています。枝野さんや東京電力の人がいろいろ説明してくれるのですが、難しくてよくわかりません。ずっとテレビを見ていると心配で過呼吸になりそうです。NHKのラジオでチェルノブイリに派遣された先生は「チェルノブイリとは全然違います。もう止まっているのですから。あらゆる手段で水をかけて冷やし続ければやがて終息するでしょう。」(というようなこと)を話し、スタッフの安藤さんのご主人(「もんじゅ」の元職員)も「大丈夫だよ」と言っていたので、わからないのに色々心配するのはやめました。計画停電が始まり、3食を早め、早めに用意し、なるべく普通に暮らすようにしています。地震の後、赤ちゃんは生まれません。落ちつくのを待っているのでしょうか。

☆災害地の妊婦さんや、赤ちゃん、お母さん達はどんなに大変なことでしょう。ここに来れば何とか面倒を見てあげられるけど、向かえに行く手段もありません。救援物資を運んだ帰りの車に乗せてもらうとか出来ないでしょうか。これを読んだ方で、友人や家族がそのような状況にあられる方がいて、こちらでの避難を希望されるようでしたらご連絡下さい。3組くらいは大丈夫です。こちらでお産することも出来ますが、病院も紹介できると思います。

(齋藤弓子)

2011年3月1日(火)

 《 搬送のこと。 》 

 

☆1月の中旬から2月の始めにかけて、搬送が3件ありました。2件は初産婦さんで、破水して陣痛がゆっくりゆっくりで、何日もかかってしまい、更に搬送先の湘南鎌倉総合病院でも2,3日かかるという、のんびりお産でしたが、自然分娩(1人は陣痛促進剤使用)で元気に生まれて来てくれました。もう1件の経産婦さんは3人目でしたが、前回の2人目も2日がかりで色々大変だったのですが、今回の3人目は急に心音が下がり、茅ヶ崎徳洲会へ搬送。すぐに吸引分娩で生まれた(常位胎盤早期剥離)のですが、状態が悪く、市大へ搬送されました。自分の無力と祈るだけの日々の中で、先日、赤ちゃんは退院してきました。お母さんは明るく、強く、頑張っています。家族もみんなで可愛がっています。お医者様に恵まれ、最善を尽くしていただいた命です。私たちも大事に見守りたいと思います。

☆2009年4月に出産後間もなく赤ちゃんを亡くされたMさんが、この1月に元気な男の子を出産されました。前は帝王切開だったので悩まれたのですが、やはり湘南鎌倉総合病院で自然分娩で生まれたそうです。電話でその報告を聞いて、本当にうれしかったです。今は子育てにフントー中。不安もいっぱいのようで、母乳外来に来てくれました。おっぱい以外のことでも色々ナヤミがあって、2時間位、助産婦の吉本さんが応対していました。

☆2月の初産婦さんは5人でしたが、そのうち3人が41週に入ってしまい、やきもきしていたところ、2月20日〜21日にかけて同時進行で賑やかに出産しました。3人ともパワフルで、楽しいお産でした。日曜日だったので休みのスタッフにも出勤してもらい、夜勤の人にも早く来てもらったりして凌ぎました。頑張ってくれたスタッフに感謝。気がついたら、もう3月です。春のおとずれも近いことでしょう。

(齋藤弓子)

2011年1月9日(日)

 《 2011年 あけましておめでとうございます。 》 

☆年末、年始、お産もなく、寝正月でした。ニューイヤー駅伝、箱根駅伝、大学ラグビー早明戦....、横目で見ながら年賀状のお礼書き。私はズボラで、年末には書かないので、200枚の宛名と一言を書きなぐりました。指が痛くなりました。生まれた子ども達の成長振りを撮った年賀状はうれしいものです。ありがとうございました。

☆3日、5日と一人ずつ生まれて、今月はあと16人。混雑しそうですが、年末にサンルームが完成し、予備室として使えるので、なんとかまわると思います。今年もこの助産院を利用される皆さんに、豊かな時間が流れるように、大事に守っていきたいと思います。

(齋藤弓子)

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