-櫻前線- Page7 



 いったん溶けてまた凍った雪道のわだちを、ぼそぼそと踏み砕きながらタクシーが止まった。ドアを開けると、すこし湿ったようなにおいのする冷気が流れ込んできた。
「さっむ〜い!」
 わたしは雪ダルマみたいに着ぶくれてたが、一度あたたかい春の空気になじんでしまった軟弱な体は、北国の3月の寒さの前には通用しないみたいだ。吐く息が煙のように白い。
「氷点下だよ、ぜったい氷点下」
「でもこのくらいで平年並みらしいよ…」
 弟はこの寒さも、さほどこたえてないらしい。まったく、なぜ子供というは寒さに強いのだろう?一歩踏み出すたびに、足もとの雪がパリパリいった。
 新しい家は、なんだかちょっとよそよそしく見えた。きれいすぎるし、なにより完成したのを見るのは初めてなのだ。ふと、近くにある並木が目にとまった。
 あれは…桜の木だ。
「母さん、あれ桜だよね? まだつぼみだよ」
 母はタクシーのトランクから大きなバッグを取り出して、わたしに手渡しながら言った。
「そうだよ、こっちでは5月に満開になるんだって。今年は桜、2回見れるね」
 つまりわたしは、桜前線を追い越してきたわけだ。さよならを言ったはずの桜と…
「ほら、自分の荷物解きなさい」
 感傷にひたろうとしたわたしを、母がこづいた。(まったく…)
 引越し屋さんのトラックから、荷物が家に運びこまれている。一足早く新しい家で待っていた父が、玄関から出てきて手を振っていた。
 わたしは少々おぼつかない足どりで、大きなバッグを抱えて新しい家へ向かって歩きだした。



 大学の構内は、なんだか以前よりも広く見える。たぶんとけ残っていた雪が全部なくなったせいだろう。高校までとはまったく違う生活パターンに慣れるころには、少々ホコリっぽい北国独特の春は、ごく普通のあたたかい春へと変わっていった。
 そしてまた、桜の花が咲いた。
 なんだかこの頃は、どんなに忙しくても、なぜかゆったりと時間が流れるように感じられる。そのくせ1週間があっと言う間に過ぎてしまうのだ。追いたてられるものがない生活というのはこんな感じなのだろう。
 昨日ふと思いたって、横浜の倉沢くん宛に手紙を書いた。どんな手紙にしようかさんざん悩んだけど、結局絵はがきにしてしまった。文面も簡単なものだ。
「どうしてんのかな今ごろ…」

 この頃やっと、倉沢くんとのことを冷静に考えられるようになってきた。少し前までは、思い出しただけで胸から血が出そうな気がしたものだけど。してみると、わたしは結構あっさり気持ちを切りかえられる性格なのかもしれない。
 学校の構内にも、それは見事な桜並木があった。何度見てもきれいなものだし、わたしには特に感慨深かった。
(すぐまた見れるさ…)
倉沢くんの言葉がよみがえる。ふと、すぐ近くを彼が歩いてるような錯覚さえした。二人で桜並木を歩いたあの日が、つい昨日のことのような、何年も前のような…
 今ならわかる。わたしたちは二人とも、ただ震えてたようなものだ。避けようもない(そのときはそう思えた)別れに怯えてなにもできずに、ただ震えていた。
 たぶん百通りの解決法があったはずだ。百通りのうまいセリフがあったはずだ。でもわたしたちは、どれも選ばずに、あの日あの言葉を選んだ。
 結果が気に入ろうが気に入るまいが、そうしてしまったのだ。それを受け入れて、生きていくしかない。
 いま、わたしはあの頃より、すこしだけ強くなった思う、すこしだけ大人になったと思う。たぶん…倉沢くんもきっとそうだと思う。
 もしも… いま初めて二人が出会ったとしたら、どうなるんだろう?

 すこしだけ強くなって、すこしだけ大人になったわたしたちは、なにも恐れずにいられるんだろうか? それとも、もっと大きな何かに、立ち向かわなくてはならないんだろうか?

 ああ…… 力がほしいね…

 誰も時計の針を戻すことはできない。時々…あのとき他にどうすれば、なんて考えるけど、たとえもっといい選択があったとしても、あの日あのときとった行動と選んだ言葉を取り消すことはできない。
 正しかった方法なんてない、わたしが実際にしたこと…それが全てなんだ。



 まだあまり青くない海を見てると、なぜか感傷的になる。なにもせず、ずっと波を見てると、まるで波と会話してるような気分になってくる。
「オマエハ答エヲ知ッテイルハズダ」
 なにかを問いかける前に、答えが返ってくる、そんな感じ。
 たぶん本当にそうなのかもしれない。でもある瞬間、答えが頭でわかってたとしても、それを受け入れられること、実際にできることとは別のことだ。
 本当に真剣なときには、自分自身の気持ちが、考えれば考えるほどわからなくなることがある。なにが本物で、なにが偽りなのか、なにひとつ確信が持てなくなる。そんなときに、冷静に正しい行動をとれ、というのがそもそも無理なのかもしれない。
 そして数え切れないほどの分岐点の中で、誰もが数えきれないほどの間違いを犯すだろう。間違いを違ったものにすることができても、ゼロにすることは、たぶん誰にもできない。それは誰も避けることができないのだ。

 あのとき、わたしは間違いを犯した。あなたも間違いを犯した。わたしには勇気がなかった。あなたにも勇気がなかった。わたしは卑怯で愚かだった。あなたも卑怯で愚かだった。わたしは……



 それでも、たったひとつだけ、本当だとわかっていることがある。

「あなたのこと好きだよ、大好き」

 わたし、今日もここにいるよ…


Fin...



あとがきにかえて



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