Re: 馬が出た

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [9月15日(日)22時19分48秒]

元の発言 [ Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月15日(日)10時21分13秒 ]

>> >> 前にも言ったように卑弥呼の周りで馬が飼われていた事はないと倭人伝から推測できるのです。

>> 出土したのは箸墓から一世代ぐらい後の文化層で、一番有力視されている説では、四世紀初頭でしょう。
>> また古いほうにとって三世紀中葉まで引き上げたとしても矛盾はないでしょう。

どうも「倭人伝の記述はどうでもいい。」とおっしゃっているように聞こえます。
倭人伝には倭国には馬がいないと書いてあるのですよ。

もし三世紀中葉に馬がいたらその場所は倭国ではない。
私の畿内は倭人の国ではないという仮説に到達しますね。

>> >> 韓の三国時代の新羅の遺跡からは4世紀中ごろの埴輪に鐙をした人物が出てくるそうです。
>> >> 西晋で4世紀初めに発明されて4世紀中ごろに新羅に伝わり、4世紀末に倭国に伝えられると言うのが順当でしょう。

>> 新羅の四世紀代の遺跡ですか!?
>> どこの遺跡でしょうか。

>> 鐙の出土例は極めて少なく、そのような状況を推定できる状況とは思えません。

鐙そのものではなく伝金海徳山里出土の騎馬人物土人形が鐙らしい物をしているという事です。
よく調べたら5世紀の物でした。
http://japan.koreainfogate.com/japan/museum/sankoku/sankoku-silla11.php3
小さな写真をクリックすると大きい写真が見れます。

>> >> 畿内説の学者でもさすがに日本に輪鐙が3世紀中庸にあったと言う人はありませんよ。
>> >> 4世紀初めと言うのが畿内説でも大方のようです。

>> これはもっとも広く信じられている土器編年によるものです。

私も寺沢さんの編年を妥当なものと思っていましたが輪鐙の出現で考え直さなければならないと考えなければならないと思うように
なりました。

>> >> ですから畿内説の学者も箸墓を卑弥呼の墓と考えている人は少ないのではないかと思われます。

>> そう断定している人は少ないかもしれません。
>> 私も断定していません。
>> 箸墓は大方280年、古いほうで260年というところと思います。
>> したがって卑弥呼の墓である可能性は有ると思います。

>> >> 248年頃に作られた墓の2,30年堆積した土のなかから出てきたのですから築造から15〜25年後の投棄と言う事になり、
>> >> 270年前後の投棄であるはず。
>> >> 使い古されていた物だから10年くらい使用したものと考えると260年には馬がいなければならない。
>> >> 280年に書かれた史書には倭国には馬がいないと書いてある。

>> まあ仮に卑弥呼の墓として、260年頃完成、290年頃輪鐙投棄、として280年頃馬がいたことになりますか。

卑弥呼のお棺はその間どうしてたんでしょうね?
箸墓の槨の位置は後円部の一番上にあるのではないですか?

>> 倭人伝の記録は相当の期間にわたる記述を集めたものと思われます。
>> 中国史書にはそれ以前の東夷伝はないので分かりませんが、他の史書の例をみれば、前代のさまざまな史書からの引き写しが多く見られます。
>> 記述の全てが成立年時期とは出来ないと考えています。
>> そもそも280年ごろ成立なら、遠い倭国の状況を伝えるとしたら、260-270年ごろが下限ではないですか。

>> >> しかもこれは何の装飾もない実用品ですから王侯貴族の持ち物ではなく、兵士または農民の使用したものでしょう。

>> 農民は馬には乗りません。

>> まず4世紀末か5世紀初めの農民の使っていた馬具の出土を知りません。
>> 農耕地帯への馬の浸透は、まず支配階級からです。
>> 農民は馬に乗る必要がないから、乗馬が苦手なのです。

「鐙は、乗馬が得意でなかった農耕民の漢民族が三世紀ごろ、馬にまたがる際の足がかりとして発明したとされる。」
乗馬の苦手な農民の為に鐙が発明されたと考えられているのですが。
当然武将や兵隊は魏や蜀でも乗馬能力はあったでしょう。
晋が呉を滅ぼして中国南部を支配した時、晋が南部に馬を沢山持ち込んで南部の農民も馬に乗るようになったらしいと言うことです。

まあ農民でなくても出土した鐙は王侯貴族の物ではありません。
王侯貴族の物なら朱が塗られた形跡とか装飾がほどこされているでしょう。
魏から贈られた物ならなおさら装飾がなければオカシイし、使い捨てにされる事もないでしょう。


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