■自循論::知の宗教性
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「知的快感」の正体は、対象を盲信して安心すること。
「深い知」とは、多くの人の意見や、様々な経験を総動員しても 正しいと認めることが出来る、つまり盲信するに足る対象のことである。 人間は、「それ以上は考えなくて良い」という対象を追い求めて、 それを盲信し、自分を預けてしまい、安心したい。 いつまでも安心できない人が、より深く深く「知的探求」を進めることになる。
自分を預けてしまえる対象を「
神
」と言い換えれば、 知的活動が必然的に宗教性に行き着くことは容易に想像できる。 要するに、物理学も純粋数学も哲学も、 知的側面で妄信し安堵したい人々に向けられた宗教の一形態、ということになる。
科学も哲学も宗教も、 知的側面に現われる恒常性欲求 (ホメオスタシス homeostasis: 通常は環境の変化に対する肉体的な安定化反応を指す) から発生する活動という意味では良く似ている。 「考えようとしている対象」よりも 「考えている主体」すなわち人間(数学者や哲学者など)に焦点を当ててみることで、 抽象的な机上論、人間を排除した無味乾燥な議論を、 いつでも生きる実感の領域に対応づけることが出来る。
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例えば哲学を深く究めていくうちに、 「なぜ、このような事を
したい
のだろうか」 という疑問にふと行き当たったとする。 「哲学のための哲学」を延々と繰り返すのが目的でないが、 今現在「哲学」魅かれているという事実を直視する時、 人は自分の置かれた徹底的に不合理で理不尽な状況に対抗できるか、 またはそれらにフタをしてしまい、 自分を安心させることが出来る、 信仰の対象を自力で探そうとしていることに気付く。
精神の揺らぎを温度に譬えるならば、 絶対零度の無、 もしくは超高温の
無限乱雑空間
といった、 絶対的な無意味の世界に身を置くことで、 不合理や理不尽は最高に達し、 一種の諦めと共に曖昧感は消え去る。 しかし、現にこの世界に生きている以上、 人は「今ここにある世界」という常温に戻ってきてしまう。 そして、一般に人は「今ここにある世界」から離れることが出来ない。 生命が、常温付近で安心して生きるために、 高温側にも低温側にも建てる防壁。 それが「知」であり、 この防壁を「意味の防衛線」として崇拝し、 それ以上のことは考えない、すなわちカッコに括る という
エポケー
により、 心の平安を得るのである。
自己が置かれた不条理(例えばいずれ必ず死ぬこと、 明確な目的が与えられておらず自由であるように呪われていること、など) の厳然性を実感すればするほど、 人間は、反動的に科学的に考えを尽くし、哲学を究め、宗教心を深め、 この「防壁」を厚くしていこうとしてしまう。 後の世代もいつかは絶え、
宇宙の寿命
も 有限であることを考えても、いや、それらのことは考えるまでもなく、 その思惟全体も、防壁の向こう側には何らの影響を与えるものではなく、 究極的に無意味である。 しかし、そうとは知っていても、 人間は何かを
信じる
ことでしか 発狂を免れない。
その結果、「これ以上は根源的な意味を求めることが出来ない」 という思考の最果てに漂流する。 そこが
自循
なのである。
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意味世界の、とある現象が、全てどこまでも(無限に)説明できるならば、 説明のための足場は際限なく崩落し、 一瞬たりとも前に進めなくなる。 安心して前進を続けるには、全ての知的活動が公理として認め、 それ以上は問う必要が無いと、知的存在の全てが 信じる対象が必要である。 つまり、「絶対に説明できないもの」こそが前進のための足場なのであり、 特に、この意味世界においては、「有限性」と「決定過程」が、その足場を提供する。 すなわち、
“有限性の理由”と“決定のプロセス”の隠蔽が、 意味世界の成立の基盤である。
つまり、自循が意味世界の成立の基盤であり、
自循
は意味世界の素粒子なのである。