倭国の乱と卑弥呼即位の時期

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [4月12日(金)18時03分31秒]


(1)三書三様の乱の時期

 後漢書は「倭国乱」を「倭国大乱」とし、これを「桓霊間」とする。桓霊とは、桓帝(147-167)と霊帝(168-189)のことである。
晋書は漢末(220)とし、梁書は霊帝の光和中(178-183)とする。晋書と梁書との間には40年程の差がある。
倭国の乱の時期が三書三様なのは、「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」の読み方・解釈の違いによるものではなかろうか。

「住七八十年」は<住(とど)まること、七八十年>と読まれ、これを男王の在位期間と見るのが通説である。
梁書が霊帝の光和中としているのもこう読んで、この男王を後漢書永初元(107)年条の倭国王帥升にあて、帥升在位の七八十年(177~187)頃と解釈したのであろう。

後漢書が桓霊間としているのも、「住七八十年」を帥升の在位期間と見てのことだとするのが一般的な解釈であろう。
しかし、帥升在位の七八十年(177~187)は、桓帝の治世を越えてしまう。
『桓』霊間としているのであるから、後漢書の撰者范曄は「住」を<とどまる>と読んではいないのではないか。

「住」は「往」に通じ(釋文:「住、或作往」)、「往」は「むかし、いにしえ、又、すぎ去ったこと」という意である。
「間」とは、空間上、時間上の二つのものにはさまれた範囲ということである。
桓霊間も桓帝と霊帝との「あいだ」ということであれば、桓末霊初の168年に当たる。
ちなみに、168年に「七八十年」を加えると238年と248年になり、これは倭人伝紀年条の最初の景初二(238)年と最後の正始八(247)年に符合する。
范曄は「住七八十年」を<往(ゆ)きて七八十年>と読んで、景初二年の七十年前もしくは正始八年の八十年前のことと解釈したのであろう。

晋書の漢末も、「住」を「往」としてのことであろう。というのは、陳寿の魏志編纂は漢末からおよそ七八十年後のことである。
晋書は起点を陳寿の執筆時点(290年頃)に取って、その七八十年前(210~220)の漢末と解釈したのであろう。

(2)卑彌呼即位の時期

三書のうち、晋書の解釈が妥当と考える。理由は、

@「其國本亦以男子爲王」は、「女」が王になるという概念のない中国人に対して、卑彌呼を「女王」とした倭国も、本来は中国と同じく男王だったと説明しているにすぎない。この前説明に男王の在位期間など全く必要ない。
A「住七八十年」を一人の王の在位期間としてみたら、これはいかにも長すぎる。
80年も在位した高句麗長寿王などは希有な例であろう。
B梁書がいうように霊帝の光和中に倭国の乱が起こったとすると、卑彌呼の即位はその数年後くらいのことである。卑彌呼は共立されたときには「年已長大」であり、卑彌呼の死は247年頃である。
仮に卑彌呼の即位を190年前後の頃だとすると、その在位期間は60年近くに及ぶことになり、「年已長大」から60年の在位というのは考えがたい。
C魏志の対象読者は、晋の時代の人である。

陳寿も晋朝の読者に対して、今から七八十年前に倭国の乱があったといっているのであろう。
倭国の乱の「歴年」とは数年から10年位であろうから、卑彌呼の即位は漢末魏初から230年の間とするのがいい線なのかもしれない。



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