Re: タミル語に関して

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [7月28日(日)13時50分07秒]

元の発言 [ Re: タミル語に関して ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 7月26日(金)09時17分45秒 ]

>>東北北部にも弥生期の水田があったことや、

だから、関越線をはさんで文明だけが北に流れた、と言っております。(^ヘ^)
弥生人との交易で手に入れたり、盗んできた米を自分で真似して植えてみたり、あるいは心優しい弥生人が技術指導してやったりしたかも知れません。

言語を異にし、文明化の程度を異にする民族同士でも、お互いのテリトリーを犯す気がなければ共存可能なのであり、共存していれば交易や略奪によって相互の文明が流れます。

>>関東ー越後ラインではもともと縄文期から文化層に差のあったことはどうお考えになりますか?

その説は初耳です。もちろん、同じ言語を話す民族だって、居住地域が異なれば環境が異なり文化差があるのは当然です(例えば山中で暮らす人々と海岸で暮らす人々の文化が違うのは当然)が、縄文時代に関越線の南北で明確な断層があったという話は聞いたことがありません。もし、そういう説があるのなら私の仮説も修正あるいは廃棄しなければならないので、教えてください。

>>おっしゃることは分かりますが、弥生縄文の共存集落も相当数あり、どうもそう単純な現象ではなかったのではないかと思います。

ある地域の縄文人と弥生人の交替は瞬間的に起こるわけではありません。(^ヘ^)
弥生人達はまず沿海部の水利のよい稲作に適した平野から占領していったはずであり、先鋒隊が関東・越後に達した紀元前後の頃にも、糸浜線以西の西日本でも山間部には多数の縄文人達が残っていたはずです。

ある土地に定住した弥生人達は耕地を広げ、人口が増えるに従って徐々に山中にも耕地を広げて行き、その段階で縄文人達が邪魔になるなら駆逐したはずです。

後漢書や魏志で倭の王達は中国多数の生口(奴隷)を献上していますが、要はこの頃でも西日本にはまだ山中には縄文人がおり、献上品(商品)として「縄文人狩り」をやっていたのではないでしょうか。

私はいま台湾に住んでいますが、台湾には16世紀頃から西海岸の平野部に中国人移民が住み着くようになり、平野部に住んでいた原住民は19世紀にはいなくなっていました。この間に中国人と原住民の混血が進んでいますが、それは男は皆殺し、女は強姦という形で進んだはずです。
しかし、19世紀末に日本が台湾を獲得した時には、まだ山間部には多数の原住民が残っており、中には裸の原始人に近い首狩り族までいたのです。(鳥居耀三という民族学者が写した写真が多数残っています)
山中にイノシシや猿が住んでいようと、平野部の農民達は作物を荒らしたりしなければ放っておくのと同じで、台湾沿岸部の中国人達は、山中の原住民達が悪さをしない限り放って於いたのです。
それと同じで、弥生人の開拓農民たちも山中の縄文人たちが邪魔にならない限りは放っておいたはずで、過渡期に縄文・弥生共存集落があるのは当然です。


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