■自循論::有限原理
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人間にとって、知・意味の及ぶ範囲は(巨視的にも微視的にも)有限である。
「意味」は「有限の範疇」にあり、 あらゆるものは有意味である限り、有限個数として数え挙げられる。 即ち、『有限存在である人間にとって有意味な時間と空間の全て』も、 1個、2個と数え上げることが出来て、その上限は高々可算有限個である。
ゼロを何倍しようが、有限の存在にはならない。 無限の中に位置づける限り、全てはゼロになってしまう。 ゼロや無限を内包した全ての説明は本質的に根元からナンセンスである。
例えば、 我々にとって「意味のある
長さ
」の 下限は
プランク長
、 上限はハッブル半径である。
もし空間が無限に大きく無限に細かいとしたら、 私達は現に目の前にあるものが、「この大きさ」で存在する、ということを 説明できない。 (説明しようと思わなければ別に不都合は無い。)
同様に、時間も
量子時間単位
で 最初の時刻から最後の時刻まで「一つ」「二つ」と進んでいく。 もし時間が無限に流れ無限に細かいとしたら、 私達は現に変化を伴い流れている時間が、「現にこの速さで」「進んでいる」 ということを説明できない。 (説明しようと思わなければ別に不都合は無い。)
もし私たちが、空間や時間が、今あるが如く、 我々にとって意味があるように存在することを説明しようと思えば、 時空は無限に細かくはなく、 量子化(1つ、2つと数えられるようにすること)が必要であり、 その始まりと終わりを置かなければならない。
(そもそも「意味」とか「区別」とか「差異の認識」 とか「集合の元」というのは「数えられる」という意味であり、 個々の対象として数え上げられるよう有限化されているということである。)
数学では、無限を扱うことで発散の困難に直面したり、 それを繰り込んで押さえつけたり、という葛藤をしている。 そもそも「無限」というものは「存在しない」「無意味なもの」であり、 数学の式を綺麗にし、様々な洞察を得るための方便だ。 現実の世の中は、人間(いや、世界内の全ての存在)には 絶対に把握しきれないだけの有限要素が犇(ひし)めいているだけだ。
湯川秀樹の「素領域」や、超ひも理論も、 「ゼロから存在を組み上げる」というナンセンスを避けて、 有限原理に基づいて理論を組み上げようとする試みの一つに位置づけられる。
量子力学
は、微小な世界での、「人間(観測者)にとっての意味」を 数式化したもの、と考えられる。 不連続な「量子」という考えが微小な世界で剥き出しになってくるのは、 現在の人間にとって、量子に意味限界がある、ということに過ぎない。 「究極の物理的実在とは何か」という議論は、 人間と宇宙を切り離せる、 という信念に基づいているように思えるが、 有限原理の立場からは、これは 「人間にとって意味のある物理的実在の限界は何か」と再解釈される。 つまり、人間と物理的実在は切り離せない(相補的である)と考える。
意味は有限性から生まれる。 たとえば、生きる時間の有意味性は、 死によって時間が有限化されるために生まれる。 (→
cf.
ハイデッガー
の 死に対する考え方。)
有限性には、量的な制限だけでなく、質的な有限性も含まれる。 『すべて有限な事物は自己が他のものでないことによって その質を維持し、同時に他のものによって規定され制限され、 諸事物の連関のうちにある。』
▼
「無限」とは、「あらゆる意味で有限であるこの現実世界」の 「近似」である。
有意味を無意味で近似するのは、 「有限の思考力しか持たない人間が莫大な有限を捉えるための方便」であり、 数学が無限を扱う時に直面する困難は、 本質的な無意味性を有意味に対応づけようとする時に生じる。
無限について、人は、 「まず本当に無限の世界があり、 それが扱い切れないから有限個数の調査で我慢している」、 という考え方に、つい慣らされがちである。 しかし、その前提となる「無限」についても、実はこれは 「想像もつかないほどの有限」を、 扱い易いように簡略化、近似しただけのものだ。 (世の中のあらゆる要素が、高々1個2個と数えられる可算有限個しか無い、 と言われると、「いや、この宇宙はそんなに小さいものではない、 宇宙は無限なのだ」と思いたくなるかも知れない。 それは、逆に自然数がいかに大きい値を任意に取れるか、 という感覚の欠如による誤解かも知れない。 例えば
グラハム数
の大きさを 直感的にでも捉え、それすらも高々可算有限個だと知れば、 有限であることが然程窮屈には感じられなくなるのではないか。)
この「有限世界」を明晰に理解しようと思った時、 以下はいずれも「近似」である。
人間やコンピューターが処理可能な個数に限って調べる
あまりに多い場合は「無限」「連続して存在する」と仮定して調べる
重要な洞察を単純化によって得ていく過程であり、 あるがままの真実を捉える作業ではない。
光子
や重力子の
質量
がゼロであり、 その力としての到達距離が無限である、という考え方も“近似”である。 宇宙が何百億光年もの広がりを持つとしても、 その大きさは有限であり、 光子は、その
コンプトン波長
が 宇宙の全域をカバーできる程度に質量が小さければ良く、 距離に無限を導入したり、存在にゼロをあてがったりする必要は無い。
「把握し切れない程の膨大な有限」は、 粗視化を行うことで、各々の階層(または相)に於いて、 独自の「意味」を形成していく。 物理科学は一つの相として意味世界を形成し、 認知科学もまたそれとは独立な意味世界を形成する。 もっと粗視化を繰り返せば、やはり全ては無意味になる。
真実として
神
があり、 無限が有意味であるならば、 真実を究めることはもっと容易かったろう。 しかし、真実は「人間やコンピューターでは把握しきれないほどの
膨大な有限
」にある。
ある有限要素nから成立する生命体(群)Xは、 f(n)を越える膨大な有限性は理解できないだろう。 単純化して言うと、たとえば、人間の脳(及び脳が創り出した道具)では、 人間の脳のあらゆる可能性を把握することは 出来そうで出来ないだろう。 だから、人間にとっての意味世界も有限である。
▼
《意識》と「有意味性」は表裏一体の関係にあり、 《意識》が有意味性を扱う以上、《意識》が扱えるのは有限なもののみである。 そして、世界とは、結局、それが内包する《意識》の総和以上のものではないので、 世界も有限である。
互いに交信不能な宇宙は無限にあって構わない。 この宇宙と全く同じような宇宙が無限にあって、 私と同じ人生や少しずつ違う人生が無限に繰り返されていても差し支えない。 なぜなら、私はそれらと交信不能であり、それらは私にとって無意味だからだ。 しかし、「この宇宙」と「この私」は、一回限りの有限で特別な実在だ。 私と交信可能な範囲に、無限とか神とかがあってもらっては困る。 では、この「有限性」は、誰が保証してくれるのだろうか。 無限にある宇宙の中で「世界として実在する」と呼べるのは、 その内部に《意識》を内包する「自覚する宇宙」だけであり、 有限性・一回性を現出させ、時間・変化・意味を創り出すのは、 《意識》の作用にほかならない。 だから、「有限性」を保証してくれるのは、 《意識》という現象の構造が持つ性質だ、という視点もある。 実際、無限時間持続し、無限の現象を知覚し、 判断し、行動できる《意識》は、 原理的に成立し得ない。 コンピューター上に理論上永遠の寿命を持ち、 有限性を前提としない《意識》を創ることは 可能であるように思われるだろうが、 実は、そのような意識は無意味である(意味を取り扱えない)。
《意識》は、自己参照のプロセスにおいて、時間軸に沿って(捕われて) 意味=有限の差異=有限の変化を扱うするものである。 つまり、《意識》は、少なくとも各瞬間には 有限のものを扱う仕組みである。 もし、《意識》の総体が無限であるならば、 有限÷無限=ゼロなので、 その《意識》にとって、 あらゆる瞬間のあらゆる部分の意味はゼロになってしまう。 (無限の情報量を一瞬にして扱えるならば、どんな有限の情報も無価値になる。 無限の時間に亙り存在できるならば、どの一瞬も無意味になる。) だから、意識が有意味に存在するとしたら、 それは必然的に有限性を持っているのである。 《意識》が《意識》として意味を持つならば、 その総体も、それが扱う情報も、(すなわち分母も分子も) 有限でなければならない。
交信不可能な範囲に無限大の宇宙が無限個あっても構わないが、 有限性を持つ《意識》が有限個集まって、 交信可能な範囲に一つの《世界》を浮かび上がらせるなら、 《世界》は、その《世界》が内包する全ての《意識》の認識の総和を超えないので、 その《世界》も有限であると言える。 (無限時間に亙り無限個の意識が集まって、交信可能な範囲に 無限の《世界》を浮かび上がらせ、個々の《意識》が 無限を実在として捉えられる状況にあれば、 その《世界》においては個々の《意識》が認識する有限の意味は、 相対的に全て無意味になる。)